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で、「ぼくには数字が風景に見える」を読みながら、
これってナチュラルボーン多和田葉子じゃん、って思ったわけ。

多和田葉子の小説は、共感覚的な言語で成り立っているようなところがあって
c0051457_23564338.jpg例えばこんなフレーズ。

   「おまえの職業は何だって、よく聞かれたよ。鍛冶屋だよって答えてやった
    さ。家事の手伝いをしてたからカジヤ、それから子供の頃、火事が見たく
    て近所に放火したことがあるからカジヤ、それから、船の舵取っていたい
    からカジヤ。」
                        「ふたくちおとこ」より

「カタコトのうわごと」という初期のエッセイ集にはc0051457_23572582.jpg
ドイツに移住してまったく日本語を話さない生活をしているなかで、
言葉というものが解体してしまったこと、それが原点になっていることがわかる。

    日本語を全くしゃべらないうちに、半年が過ぎてしまった。日本語がわた
    しの生活から離れて行ってしまった感じだった。手に触れるものにも、自
    分の気分にも、ぴったりする日本語がみつからないのだった。外国語で
    あるドイツ語は、ぴったりしなくて当然だろうが、日本語が離れていって
    しまうのは、なんだか霧の中で文字が見えなくなっていくようで恐ろしか
    った。わたしは言葉なしで、ものを感じ、考え、決心するようになってき
    た。(そんなことは有り得ないという人がいるでしょうが、他にいいようが
    ないので。)もちろん、小説を書くどころではない。日記でさえ、当時書い
    たものを今読むと、意味の分からない箇所がたくさんある。

これってすごく過激なことじゃないですか?
(海外生活経験者なら少なからず体感することなのかもしれないけど。。。)
そしてダニエル・タメットの「おかしな話しかたはやめなさい」という
体験とびっくりするほど共通している。
こういう原体験からはじまって、ダニエルはマンティという言語を編み出し、
多和田葉子は日本語とドイツ語で小説を生み出している。
しかも、日本語を使うときとドイツ語を使う時では作風が違い、
ドイツ語でなければ書けないことがあるから、
日本語で書いた小説を翻訳してドイツ語の小説にするのではないという。
自作を翻訳したことはなく、翻訳は翻訳家に任せているそうだ。

     もちろん、ドイツ語で書くのは、わたしにとって、すごく大変ではあったが、
    小説を書くというのは常にすごく大変なことなので、語学の大変さだけを強調
    する必要もないだろう。もちろん、わたしの書くドイツ語は、ドイツ人の書く
    ドイツ語とは違う。ちょっと抜けている、つまずきそうな、変なドイツ語なの
    だろうと自分では思っている。だからこそ書くかいがあるのではないかとも思
    う。わたしは<美しい日本語>を信じないので、もちろん<美しいドイツ語>
    も信じない。そういう国粋主義的な発想を離れて、これからも日本語が母国語
    ではないのに日本語で小説を書く小説家がふえてくれればいいと思う。

「読めそうで読めない、読めなさそうで読める不思議な本」
多和田葉子の小説について書いたある文章で、このフレーズを読んだとき
まさにそのとおり!と思った。ストーリーらしきストーリーもなかったりして
よくわからないのだけど、なぜか読めてしまってその感じがクセになる。
言葉のうねりに巻き込まれて、酩酊する。
そんなときに言葉のシナプスが途切れて、ちょっとだけ共感覚的風景を感じているのかもしれない。



『ふたくちおとこ』(1998) 河出書房新社
『カタコトのうわごと』(1999) 青土社
多和田葉子


そんなこんなで10冊近く読んでしまった多和田作品。
お正月も、学生の時に読んで実家に残してある「犬婿入り」(芥川賞受賞作ですね)の
ハードカバーを15年ぶりくらいに読み返してみたり。
でも、乱読するタイプの本ではないので、もっとじっくりと読み返したいです。

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あけましておめでとうございます。
お正月は相も変わらず、駅伝三昧。(ただし今年は姪と甥の相手メインだったかも。。。)
年初に「走る」という泥臭くも美しい姿を見て
「ああ私も頑張って走らないと」と気持ちを新たにするのはいいものです。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

ということで昨年からの持ち越し、
読書会5回目にして、初のノンフィクション「ぼくには数字が風景にみえる」。c0051457_0105837.jpg
サヴァン症候群(レインマンとか山下清もそう)でアスペルガー症候群でもある
イギリス人の青年ダニエル・タメット。円周率を2万5千桁以上暗証し、
10か国語を話す彼が、みずからの生い立ちをつづった自伝であります。

自伝というだけあって、実際にカレンダー計算や暗算、言語習得の感覚など
わたしたちには想像もつかない天才的感覚が、図解なども交えて
本人の言葉で語られていて、対象がサヴァン症候群であったりするだけに
そういう本ってなかなかないのでは。
その感覚は、タイトルにもあるように数字や言葉を情感をもったものとしてとらえる
「共感覚」という言葉で表現されていて。例えば「素数はつるりとした形をしていて、
ざらざらした個性のない合成数(素数以外の数)と全く違っている。」とかね。

なかでも一番私が興味深かったのは、言語に関して。
そもそも言葉というもの自体が、ある物事をある言葉で表すという共感覚の一つであって、
わたしたちはそれを日本語として固定することで、
他者との会話などのコミュニケーションを図っているわけですが。
なんとダニエルはその共感覚でもって、10ヶ国語を話すだけにとどまらず、
「マンティ」という自分独自の言語を作り上げているという。
驚異的な記憶力でもって語彙は千以上、文法も練り上げ中とか。

言葉の共感覚は限られた音(おん)の組み合わせの中で、
日本語としてとらえたときは日本語であるし、同じ音でも外国語だったりすると
全然違うものとなる。私たちの共感覚は日本語の枠内で固まっているわけで、
外国語になれば、その共感覚はまったく別の枠になってしまうわけだけど、
要するにダニエルはその枠が解体されているだけでなく、自分独自に作り上げてしまっているわけ。
「とてつもなく強い感情を抱いたり、すばらしい経験をしたりすると、
それを表す新しい言葉が脳裏に突然浮かんできた」りして
会話のなかに造語を入れて、自分の思っていることを説明しようとしたりしても
理解されることは当然ながらなく、おかしな話し方はやめなさい、と言われたり。
そんなことを経て生まれたマンティは彼が内面世界を表現するときの
具体的な伝達手段になっているというのだから驚く。

と、ここまで読んで、稲妻にでも打たれたように激しく思い至ったのは
前にここにも書いた作家・多和田葉子のこと。すでに長くなったので続きは後編にて。

この本、本人の成長過程での悩みや葛藤、それを支える家族や周囲の人々のありようが
嫌味なく書かれていて、知ることが偏見をなくすことの第一歩だと思うだけに、
どっちが優れているということではなくて、別々の能力を持つ人間として理解できる
ということでも、とてもいい本だと思います。
(おそらくそういうヒューマ二スティックな捉え方が多勢だと思いますが。)


『ぼくには数字が風景に見える』(2006)
ダニエル・タメット
古屋美登里:訳 (2007)
講談社

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