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絶対音感


自分世代の御多分にもれず幼稚園時はヤマハ音楽教室に通い、絶対音感_c0051457_035255.jpg
ピアノも10年くらい続けた私ですが
絶対音感はありません。メロディくらいはとれるけど。
ピアノは好きだったけど、ウデはからきしだったからね、
絶対音感、という言葉の響きだけでなんかすごく特権的なものを感じてしまう。

絶対音感、というのは簡単にいえば、ある音や和音を聞いただけで
その音がドレミの何の音か即座に分かる能力のこと。
絶対音感があると電話の音や水道から流れる水の音を聞いてもドレミに聞こえ、
歌を聞いてもドレミが先にたつため、歌詞が聞けないという。
オーケストラの基準音のA(ラの音)は現代440ヘルツとされているそうだけど、
これが1ヘルツでも狂うと気持ち悪い、という音楽家の証言も紹介されたりする。

この本を読んで初めて知ったのだけど、歴史的にも昭和初期から
世界的に通用する音楽家を育成するためののエリート教育として
「絶対音感教育」が始まり、大平洋戦争においても
爆撃機の爆音を聞き分けたりするのに有用とされていたそう。
前半ではそのような歴史的背景から、現代においても英才教育として
子供達に絶対音感をつけるための音楽教室などがとりあげられる。
絶対音感が音楽家へのパスポートであるかのように。

しかし、この本が全編を通して言おうとしているのは
絶対音感は「絶対」なものではないということだ。

絶対音感教育を受けた音楽プロデューサーが東京芸術大の学生時代に
初めてガムラン楽器に出会ったときの経験をこう語る。
「わけがわからなくて楽曲として認識できない感じでした。
先生が一セット調律していたときも、先生には先生の基準があるようなのですが、
それが何なのかわからない。楽器によっても違う。
全く享受できませんでした。」
これは西洋音楽の音階とガムランの音階が違うためだ。

  音が鳴ったとき、その音名が何であるかを自分の平均律のカテゴリーの中で
  考えようとする習慣が幼少の頃からあったために、そこに入りきらない音が
  享受できないのだと気付いたのである。ドの音が鳴ったからといって「ド」
  という言葉で受け取るのではない。その音の先を考えようとした。
  
  絶対音感は物心がつく前に親や環境から与えられた、他者の意志の刻印である。
  音楽を職業とするには、それだけでは全く不十分なのである。

音楽が(絵とか小説とか他の芸術についても言えるけど)
ひとの心を揺さぶるのはテクニックだけではない。
その向こうにある何かなのだ、というごくシンプルな結論を書いてしまうと
なんか身も蓋もない感じだけど、音楽家たちの葛藤を追いかけて
この本を読んでいくとちょっとした感動を覚える。
最終章はバイオリニストの五島みどりの弟、五島龍母子の物語で終わる。

  アッパーウエストの高層アパートには、今日も少年のバイオリンが響いている。
  何度も何度も音階練習を繰り返し、それでももう一回と母の駄目出しを受ける。
  地団駄を踏みながら「イェース」と叫ぶかと思えば、次の瞬間、大人びた顔で
  胸のすくような技を披露する。
  
  高速で飛び去る飛行機のジェット音、打ったり漂う飛行船の静かなスクリュー音。
  (中略)少年を抱く音はすべて、今、少年の歌を彩る音楽になった。
  母の物語は少年の心の扉を押しただろうか。
  少年の心をつくるのはなんだろうか。
  本棚に並べられた世界歴史文学全集、床に転がる地球儀、それとも、窓の外に
  広がる限りない地平線だろうか。


まあ、人生も同じだよね。
絶対じゃない、テクニックじゃない、勝ち負けでもない。
だからちょっと心うたれるのかもね。


『絶対音感』 最相葉月(1998)
小学館


ノンフィクションってほとんど読んだことないけど、これはよかった。
矢野顕子とか大西順子、井上鑑なんかも出てきます。
音楽好きなひとはぜひ。お薦めです。




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