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24時間リレーマラソン実況その2_c0051457_1485190.jpg

1.6kmの周回コースを基本9人でリレー。分担は綿密に計画してあって3時までは暑さによる消耗を防ぐため一人一周。このあと4回目です!
# by jack-hours | 2008-07-19 14:08 | run/走ること
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なる粋狂なイベントに参加中。富士山の麓にいます。本日10時スタート。只今一時間経過。あしたの10時までリレーし続けます(笑)
# by jack-hours | 2008-07-19 11:35 | run/走ること
もともとは『素粒子』とは全く関係がなく、今年の初めごろにクロイツェル・ソナタ~『素粒子』のパラレルワールド その2_c0051457_23555583.jpg
「なんかひさびさにロシア文学でも読んでみるかな」と思って本屋に行ってみたら
ロシア文学って長尺のものが多いんですね(笑)。
で、単にあまり長くないという理由で選んだ一冊なのですが。
読んでみたらかなりおもしろくて、読書会の課題図書を選ぶ時にこれにするか
『素粒子』にするか迷ったんだけど、ビッグネームだからやめたってくらい。

でも、そのあとに読んだ絲山秋子『小田切孝の言い分』に『イワン・イリイチの死』が
そして『素粒子』には『クロイツェル・ソナタ』がでてきてびっくり。
『イワン~』も『クロイツェル~』も自身の死や妻殺しといった
一人の人間にとっての切実な問題が、切実であればあるほど
他人からはどこか滑稽じみて見えてしまうということが、
主人公の自意識過剰な饒舌っぷりを通じて仮借なく書かれていて
陰極まれば陽となるとばかりに、かなり重い問題なのになんだか笑えてしまうところに
自分も所詮偽善的な人間なのねと気づかされてしまうところが凄い。

で、『素粒子』では人を愛することのできない弟のミシェルの恋人アナベルが、
「クロイツェル・ソナタを読んでミシェルのことを理解した気がした~」みたいな
くだりで出てくるのだけど(いま人に貸してて手元にないので、ちゃんと引用できず)、
『クロイツェル~』を読むと、この話の主人公ってミシェルではなくて
まさに兄のブリュノ。こういう過剰に偏執的な自意識に苦しめられる人物っていうのは
別に現代文明の産物ってわけじゃないんだな~と思いました。

この小説にはタイトルにもなっているように
ベートーヴェン「クロイツェル・ソナタ」が象徴的な役割を果たしているのだけど
この部分はなかなか過剰に凄いので、一部引用。

    あれはいったい何なのでしょう? 私にはわかりません。音楽とはいったい何なの
   ですか? 音楽は何をしているのか? 音楽は何のためにそのようなことをしている
   のか? よく音楽は精神を高める作用をするなどと言われますが、あれはでたらめで
   す、嘘ですよ!
    音楽は確かに人間に作用する、それもおそろしく作用します。これは私の経験から
   言っても間違いありませんが、でもそれは精神を高める作用などではありません。音
   楽は精神を高めるのでも低めるのでもなく、ひたすら精神を興奮させる作用をするの
   です。

特に笑ってしまった一節↓

    ところがこの恐ろしい道具は、どんな人間でも手に入れられるのですよ。たとえば
   あのクロイツェル・ソナタの第一プレストです。いったい肩もあらわなデコルテをま
   とって客間に集まった貴婦人たちの真っただ中で、あんなプレストを演奏していいも
   のでしょうか? 演奏をしておいて、終わったら拍手をし、それからアイスクリーム
   をほおばって最新のゴシップを語り合うなんてことが許されるでしょうか?

ここまで書かれてしまうと「クロイツェル・ソナタ」を聴いてみずには
いられない感じですが、クラシックは聴かずとも音楽がもたらすトランス状態にはまった
自分としてはかなり感じ入るところがあり、文豪トルストイはこの部分を書きたいがために
この小説を書いたのではないの?と思ってしまいたくなりました。

そして主人公がひたすら毒づく「結婚を目的として繰り広げられる上流社会の生活」が
まさにジェーン・オースティン的な世界であり、見てみるとベートーヴェンとオースティンって
同時代に生きているのね、と不思議な円環を描いてオースティンという
振り出し(?)に戻ってきた小説をめぐるマイイリュージョン。


『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』(1887)
トルストイ
望月哲夫訳 光文社古典新訳文庫

SFには全くと言っていいほど免疫がないわたし。
すばらしい新世界 ~『素粒子』のパラレルワールド その1_c0051457_16255226.jpgだから『素粒子』のSF的結末に「こういうのもありなんだ~」と
衝撃をうけたわけなのですが、SFをよく読む人からしたら
この小説ってどうなのでしょうね。その前の300ページ以上にわたる
ディープな純文学的心理描写が耐えがたいのかもしれませんが。

この『すばらしい新世界』は1932年に書かれた
SFの古典的名作といわれているようで、
『素粒子』では分子生物学者である弟のミシェルが
この本について言及するかたちで登場します。
ストーリーはフォード紀元(フォードが神ってことね)という未来世界で、
人間は胎生ではなく受精卵の培養によって壜から生まれるようになっています。
遺伝子操作によって上流階級は一卵性だけど、下層階級は一つの受精卵から
必要労働力に応じて計画的にクローン生産されていて、
さらに階級ごとに外見を操作され(労働者階級は背が低い、とか)、
生まれたときからの徹底した条件反射学習によって(労働者階級は本に嫌悪をいだく、とか)
人々は自分の置かれた階級に満足し、何の不満もなく平和に暮らしている
まさに「すばらしい新世界」というわけ。
この世界が『素粒子』のエピローグの下敷きになっているわけね!って感じなわけだけど。
1932年というのはなんと昭和7年なわけで、ここに描かれている新世界が
21世紀の現在読んでも全く古臭くないことにまず驚く。まさに驚異的なリアリティ。

そして、かつてこの「文明社会」から行方不明になってしまった女性が
インディアンをモデルにした「未開社会」で胎生によって息子を産みます。
この息子(野蛮人/サヴェジ)が成長し、あるきっかけで
「文明社会」に連れてこられたことによって、この社会がほんとうにすばらしいのか?という
疑問を問いかけていくことになり。。。

もちろん、この「未開社会」がわたしたちが現在住む世界で、
「文明化されていない」野蛮人が私たちということになるわけなんだけどね。
そのサヴェジが抱く「文明社会」への不信をたどって読み進んでいくと、
小説ももう終わり近く、この「文明社会」を統率するムスタファ・モンド(総統)と
サヴェジの対話のシーンに至る。
読みながら(不気味にも)違和感を感じてしまうのが、この対話の幕切れだ。
省略して抜粋。

  総統は言った。「われわれは物事を愉快にやるのが好きなんだよ」
  「ところが、わたしは愉快なのがきらいなんです、わたしは神を欲します、詩を、
   真の危険を、自由を、善良さを欲します。わたしは罪を欲するのです」
  「それじゃ全く、君は不幸になる権利を要求しているわけだ」とムスタファ・モンドは言った。
  「それならそれで結構ですよ」とサヴェジは昂然として言った。「わたしは不幸になる
   権利を求めているんです」
  「それじゃ、いうまでもなく、年をとって醜くよぼよぼになる権利、梅毒や癌になる権利、
   食べ物が足りなくなる権利、しらみだらけになる権利、明日は何が起こるかも知れぬ
   絶えざる不安に生きる権利、チブスにかかる権利、あらゆる種類の言いようもない苦悩に
   責めさいなまれる権利もだな」
   永い沈黙がつづいた。
   「わたしはそれらのすべてを要求します」とサヴェジはついに答えた。
   ムスタファ・モンドは肩をそびやかした。「じゃ、勝手にするさ」と彼は言った。

ここだけ読むと「なんのこっちゃ」って感じかもしれませんが、
このサヴェジのありよう、はたして現代の私たちだったらどう答えるのか?
という気がしてしまう。100%サヴェジにイエスと言えるのか?
そこに1932年という、まだそうはいっても時代の「行き詰ってなさ」を感じてしまう。
(とはいえ、ラストがまた暗示的なところは、当然ハックスリーが
 そこを意識していることを示しているわけだけど。。。)

そう思うと、もしかしてウェルベックはこの違和感に対する現在の回答として
『素粒子』を書いたのではないの?なんて気もしてきて。。。。
徹底して、それも思い切り個のレベルで現代の行き詰まりっぷりを描くことで
20世紀の終わりにこの『すばらしい新世界』に対して
事実だけではない、心理的リアリティを示す、そんな気がしてしまいました。
そういう意味においては、不気味な共振関係にある2冊です。
2冊続けて読むと、世界の見方が変わるかも。。。。なんて。

『すばらしい新世界』ハックスリー(1932)
松村達雄訳(1974)
講談社文庫

解説も1974年(何と26刷)なわけですが、
「技術革命などということばにつられて、機械文明の未来について
ばら色の夢を抱きがちな人類にとって、『すばらしい新世界』は
今後とも警鐘を打ち鳴らすことを止めないであろう。」
っていうのも今読むと、その紋切型に違和感ありますね。
ま、たしかに警鐘なんだけど

第一回読書会と『素粒子』のパラレルワールド_c0051457_21164696.jpgついに!第一回読書会がめでたく開催。
当初は昼休み、といっていたのが徐々に盛り上がり、
アフターで一席もうけましょう、となり
場所は課題図書にちなんだ場所ってよくない?と某フレンチブラッセリー。
ホスト慣れしていないもので、当日は仕事をしながら
なにか起こりゃしないかとみょーに緊張しっぱなしでしたが
無事予定通り18時すぎに会社を脱出。

メンバーは『ジェーン・オースティンの読書会』と同じ女5人、男1人、
年代もばらばらな構成。課題図書は前にも書いたけど、ウェルベック『素粒子』で、
自分でもあらためて読み返しながら、これちょっとディープすぎだったかしらん。。。と
思ったら案の定、皆様(S先輩除く)なかなかはかどらない様子で、すみません状態だったけど
直前の猛追い込みであらかた読んでいただき。

残念ながら一人仕事および家庭の事情(笑)、で欠席になってしまいましたが
趣味嗜好はそれぞれながらも、読書会に参加しようという人たちの集まりだけあって
話はあちこちにとびつつ、おいしいフレンチのコースを食しながら
かなりの盛り上がり。同じ小説でも当然だけどそれぞれの
とらえ方があって解釈が広がったり、そのとらえ方にその人となりが垣間見えるところがおもしろい。
S先輩もいっていたけれど、べつに自分のプライベートなことを
話しているわけではないのに、ただの飲み会よりも人が見える感じがする。

『素粒子』を3年振りに読み返して、皆で話してて思ったのは
最初に読んだ時よりも、今の日本が孕んでいる状況により符合しているような感じがしたこと。
生臭い事件がつづいているけれど、「これってブリュノだよね。」って思うと
新聞やニュースの表層的な報道よりも根源的に理解できるような気がする。

で、この第一回読書会にあたり、いくつか関連図書を読んで臨んだので
そのうちのいくつかのレビューをアップします。これもまた
思っていた以上に『素粒子』パラレルワールドって感じでおもしろさが膨らみ
読書会がなかったらここまでしなかったかもと思うと、ビバ読書会、であります。

ちなみにオタばりに気合をいれて持ち込んだ関連グッズ(笑)
『素粒子』 映画版チラシ
『ジェーン・オースティンの読書会』と映画パンフ →読書会元ネタ
『高慢と偏見』 ジェーン・オースティン →元ネタの元ネタ
『すばらしい新世界』 オルダス・ハクスリー →素粒子にでてくる
『知覚の扉』 オルダス・ハクスリー →そのハクスリーのメスカリン体験エッセイ
『クロイツェル・ソナタ』 トルストイ →素粒子にでてくる
『ベートーヴェン:クロイツェル・ソナタ』 CD →小説を読むと聴いてみずにはいられない
『プラットフォーム』 ウェルベック →素粒子の次の小説
『闘争領域の拡大』 ウェルベック →デビュー作

持っていった甲斐あって笑、皆さんそれぞれ興味あるものを借りていってくれました!
帰りは荷物も軽く。そしてノリノリで次回のテーマはがらっと毛色を変えて
というか、S先輩が初回が重めだったので次は日本文学で親しみやすい感じでと
あえて『W村上』を提案。本の話をするときにたいていでてくる「龍派?春樹派?」という
タームを改めてやってみましょう、ということで。ちなみにメンバーの中には
龍派も春樹派も。本をどれにするかはまだ盛り上がり中ですが、そろそろ決めないとねー。
これまた楽しみです。

写真は『素粒子』文庫版(ちくま文庫)

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